平和旬間に因んで

ゴーセンス神父

2007年度、定例司教総会開催に際して618日に日本の司教たちに宛てられたアルベ ルト・ボッターリ・デ・
カステッロ教皇庁大使の挨拶の一部分を引用させて平和を築くにはどうしたらいいかご一緒に考えてみましょう。
最近成立した、新しい「教育基本法」と、「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、日本国内だけでなく
世界の多くの国々においても、多くの人々の懸念を引き起こしています。人々は、言論の自由や信教の自由が
損なわれることや、戦争放棄(それは日本国憲法に記され、多くの人にとって、人類が紛争解決のために暴力
を用いないことへの希望と祈りの象徴です)が、人類の利益にとってそれほど重要でないことに取って代わら
れることを心配しています。

 皆様は、政教分離の原則、憲法九条が日本だけでなく他国に対してももつ価値、そして平和のために働くこと
の重要性について、さまざまな明確な声明を出してこられました。これらはまことに称賛すべき勇気ある声明です。
わたしはこの機会に、これらの声明と、平和と社会の一致を守るための皆様 のご努力をわたしが支持すること
を確認させていただきたいと思います。

この平和のおかげで、日本の教会は発展し、日本も過去50年以上の間、繁栄できたからです。多くの人が、今、
明確な方向づけと勇気ある指導を期待しています。わたしは皆様の最近の声明が日本の未来と世界平和に関心を
もつすべての人から大いに歓迎されることを確信しています。」
  ヴァティカン大使がやはり国際的な平和を奨励すること、又地域教会を指導する司教団とペトロの後継ぎで
ある教皇との間にパイプ役を果たす教皇大使が日本の司教たちを励ましていることは当たり前のことだと言え
るかもしれないが、その理由付けは注目すべきだと思う。それは、普遍的な視野を持って、9条に対する世界
中の人々の反応と期待を指摘し、神の国を宣教する教会の自由を真剣に弁明することであるに違いない。

聖書が物語っている歴史は人々の愚かさと罪深さを伝えると同時に、神がキリストを通して平和を与えていることを示しています。旧約聖書に、頑な心の民と共におられる忍耐強い神はシャロームをもたらす方だ。この平和の第一の特徴は現世的なものである事だ。物質的な豊かさを含めば、関わりの調和も味わえるものである。シャロームと言う言葉のルーツには「完」という意味がある。たとえば、家を完成した時の「完」、又は誓いを果たした後の「完」、又はお金を貸してくれた人を、借金を返済によって、満足させる「完」。シャロームというものはただ平和の条約、平和の時代、戦争がない状況を指摘するだけではなく、完全な幸福を意味する。これは敵からの安全、兄弟らしい信頼と交わり、正義がもたらす報い、たとえば農業の豊作、家畜の繁殖、国民の増加、安全と安心で恵まれる長寿を含む神からの贈り物である。シャロームは、日常生活において、自然とのハーモニー、自分と他人との調和、神との親しさの祝福である。

平和の与え主である神へ、まず平和を祈り求めるべきである。しかも、聖書は平和への努力や活動をこういう神への協力として受け止めている、その協力は不完全であっても、また失敗と背きにもかかわらず。なぜかと言うと、聖書に登場する信者が自分の罪深さを同時に正直に意識しているから。

全能の神を信ずる人にとって、苦しみ、特に迫害の受難は、守ってくださるはずの神に対する疑問を起こしがちであれば、平和に関しても、同じようなつまずきが生じやすい。もし平和が正義のしるしと実りだったら、どうして神を敬わない人たち、不正を行う人は平和らしく暮らしているか。このフラストレーションを2500年前にあるがっかりした信者は見事に詩篇73,3―13節に表現した。

神に逆らう者が栄えるのをみて、

高ぶる者をわたしはねたんだ。

かれらには何の苦しみもなく、

からだは健やかで、力にあふれている。

人々の苦悩も知らず、

ほかの人のように苦しみにあうこともない。

それゆえ、ごう慢がその首飾りとなり、

暴力は衣のようにかれらを包む。

かれらの目は血走り、

心は悪い企てで満ちている。

人々をあざけり、悪意を持って語り、

うぬぼれ、高ぶって話す。

その口は天の権意を借り、

舌を誇りにして人々に語る。

民はかれらに走り、

そのことばを受け入れる。

神に逆らう者は言う。「神が何を知っているのか、

神は何も知りはしない。」

神に逆らう者はこのような者。

かれらはなんの苦労もなく富を増やす。

わたしが心をきよく保ち、

手を罪で汚さなかったのはむだだったのか。

正しい生活への努力は無駄だったか、と言うような疑問は誘惑になりやすい、たとえば、王様たちは神に頼らず、神を無視する権力者と契約を結ぼうとすると、やはり預言者の批判を浴びてしまう。しかも、神に基づく正義の実りである平和という賜物が、不正と搾取を取り除くことを前提としていることも預言者は訴える。だから、彼らのメッセージはいつも災いと祝福、罰と約束、両方の警戒からできている。

偽りの平和から生じるフラストレーションに対して、預言者たちと神を信頼する人々は平和の終末的な幻を主張する。すなわち、平和は川のように流れ、洪水のようにすべてを追うという期待だ(イザヤ66,12)。又は、平和の君を待ち望んで、その支配には終わりがないと言うヴィジョンである。

歴史の終末だけではなく,個人の終末のレベルでも、苦しみと死、特に若い殉教者の運命を考えると、体の復活を含めて永遠の命の至福が彼らの報いとなることを知恵の書3,1−4は紀元前140年ごろに期待していた。

神に従う人の請ける魂は神の手で守られ、

もはやいかなる責め苦も受けることはない。

愚かな者たちの目には彼らは死んだ者と映り、

この世からの旅立ちは災い、

自分たちからの離別は破滅に見えた。

ところが彼らは平和のうちにいる。

人間の目には懲らしめを受けたように見えても、

不滅への大いなる希望が彼らにはある。

やはり、旧約聖書の思想はこの逆説的な問題に関しては発展したと言える。はじめは平和をただ地上の幸福としか考えなかったが、最終的に、平和を親しいかかわりと交わりとして受け止めていく。平和は結局いつも神が報いるものだと信じていたからである。

平和に関する旧約聖書の考えをまとめて言うと、対立の原因である罪を取り除くことによって、平和の土台となる正義をはじめて得る。だから、平和を実現しようと努力する人は神からの平和の言葉に心を向けなければならない。回心こそ平和の取り組みの前提だ。神だけが平和を与えることができるからだ。少なくとも2600年前に詩編85編を作った信者はそれを見事に悟った(9−14)。

神の語られることばを聴こう、

神は平和を約束する、

その民、神に従う民に、

心を神に向ける人に。

救いは神をおそれる人に近く、

栄光はわたしたちの地に住む。

いつくしみと誠はめぐり合い、

正義と平和はいだき会う。

まことは芽ばえ、

正義は天から見守る。

神は恵みを注がれ、

地は豊かに実る。

正義は神の前に進み、

平和はその足跡に従う。

       福音書には、イエスの公生活の言葉、行い、振る舞い、姿勢、色々な悪との戦い、神の国のメッセージ、新しい人間関係,哀れみ深い天のお父様との親しいかかわり、つまりその福音宣教の活動は一時人気を集めたが、すぐにも根強い反発をかい、ねたみと殺意(マコ3,6)を起こし、裏切りによる逮捕と不正の裁判の結果で、冒涜者として片付けなければならない死刑をまねいた。

過ぎ越し祭の巡礼団の夕食の間、暴力に満ちているこの世の中で起ころうとしていた歴史的な事件をイエスは旧約時代にずっと待ち望まれていた新しい契約(「石の心ではなく,神の霊に動かせられる心によって守られていく契約」)に替えてくださった。妥協せず、硬い決意をし、政治と宗教の中心である都に上り、非暴力の道を歩みながら無防備となり、進んで受難に向かえ、命をかける(パンとぶどう酒、体と血は別々になっているから、死を指摘する)ほどの自己奉献的にイエスは神を絶対に信頼し、罪びとである私たちに新しい道を開いてくださった。

 天のお父様と人類への最高の愛に満ちた死に方のゆえ、イエスは神に復活させられ、命への導き手と定められた。神の前に永遠の価値をもつ生き方の基準がこの主イエスご自身であるから、再臨するキリストはすべての人の審判者とも初代教会から告白される。

神の偉大な救いの計らいと結びついたパンとぶどう酒を、私たちは信仰のうちに主イエスの渡された体と流された血としていただくことによって、キリストの御心と一つになれる、食べ物と飲み物が命のレベルで私たち自身になっていくと同じように。「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らに平安を与えたまえ。」

 教会ニュース「風」8月号 巻頭言より