逆説的なものを通して神を知る

清川 泰司神父

 聖書を読み進めてゆくと、同じ言葉を使っても世の大方の意味を覆す意味が示されていることに気付かされます。そして、私たちが思い込まされている価値観と聖書に描かれる神の価値観が違うということを知らされるのです。例えば、「王」とか、「栄光」とか、「権威」という言葉、また「神」という言葉についても意味概念が覆されるのです。例えば、イエスによると「王」とはすべての民の幸せのために奉仕する者と位置づけられ、王に従う民とは王に仕えるのではなく社会的弱者や排斥されている側に立つことにより同時に王に仕えるということになるのです。また「権威」も世の権威者と違い、仕える者になることが示されます。さらに、「栄光」はイエスの十字架での犠牲が「栄光」となります。

実は、キリスト教講座をしていて、受講者が世間の中で思い込んでいる言葉の意味転換の作業がキリストを理解する上で不可欠なのです。世の価値観のままでキリスト教を理解すると、世の価値基準が蔓延した教会になり、また、教会は、キリストのメッセージを無視した「聖なる」ものを装うことだけに努力するようになるのです。そのことにより刷新を目的としない行事に力を注ぎ、目に見える実績に振り回され、目に見えるものに依存する、そうすると表面的な部分では教会は維持できても空しいものになるのです。そして、イエス・キリストは世に受肉したことが証しできない、刷新しない頑固な集団が維持されることになるのです。存続するかしないかよりも、このような危険性を察知するような基礎が小教区の運営なり、信徒一人ひとりの意識が必要であると感じるのです。聖書の経験、福音の真意を探る経験のない教会は、往々にして人間の思いが優先される共同体が生まれるのです。このことを私は危険視するのです。 

さて、信者、信者でない人に限らず、神のイメージについてこのような対話をすることが多くありますので、ここで紹介したいと思います。多くの人は、先ほど述べたイエスのメッセージ、つまり意味転換なしに「神父さん。神の絶対的存在ですね」と聞いてきます。その時、私は、この人々の言う「絶対」とは、人間的イメージで言う完全無欠であり、計り知れないものとのみ受け止めていることを感じるのです。その時、いつも「聖書を一度、読んでください。そこには人間に語りかける神が出てきます。そして、神は人間に忠告しますが、人間に裏切られ、聞かれないのです。それでも神は人間をあきらめないというのが、聖書が描く神の姿なのです。このような話を聞くと、このような疑問が出るのではないでしょうか、なぜ絶対者でもあり、万能の神が人間の問題を解決できないのだと感じるのではないでしょうか。しかし、私は、この弱々しく感じる神に、強さを感じるのです。また、今も尚、神は人間に呼びかけておられることを感じるのです。それは、人類にまだ戦争があり、差別があり、人間の罪深さがある、そして自分自身の中にも原罪を発見することがあるのです。それに忍耐強く諦めずに付き合ってくれる神に対して神の愛の絶対性を感じるのです。」と言いました。その時、意外にも「何年も信者をやってきたが、そのような話し、初めて聞きました」といわれます。

例えば、第二次世界大戦のとき戦死してゆく人の多くは、当時の日本の神格的存在である『天皇陛下万歳』というのではなく、『お母さん』と言って死んでいったというのです。その戦死してゆく人にとって、世の権威とは違う、その人のことを一番考えて、一番悲しんでくれる人のことを思い出しているといえるのではないでしょうか。世の権威に勝つ、本当の権威、その『お母さんの愛』と比べた時、その天皇陛下の愛は偶像ということになるのではないでしょうか。その偶像は、すべての人を幸せにしないものを持っているのです。そのような偶像を人間は生み出すのです。その偶像に気をつけなさいということを、私は聖書から得た神のメッセージなのです。聖書には「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか。例え女が忘れようとも、私()があなたを忘れることは決してない」(イザヤ49:15)。と書かれています。イエスが紹介した神、それは、母を越える、その人のことを一番考え、より良き方向に導こうとする神です。

その意味で、私は、たとえ、それがキリスト信者といっても、たとえ十字架やマリア像に祈っても、イエス・キリストが紹介した神と違うイメージで祈るならば、もしかして、その神は偶像になるかもしれないと感じるのです。十字軍、大航海時代の植民地政策、第二次世界大戦のとき、カトリック信者でありながらも、弱いものを搾取し、支配し、お互いに殺し合いをした。その時、その人の中にはキリスト者と言いながらも偶像が支配していたのではないでしょうか。そんなことに警鐘を鳴らし気づかせようとする神を忘れていた、若しくは知らされていなかったのではないでしょうか。キリストの言葉による意味転換をしていない絶対的神を信じることにより「優越感」を持ち悲劇に陥って行ったのではないかと思うのです。このような意味転換について、イエスは「わたしは羊の門である。わたしを通って入るものは救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊に受けるためのである」(ヨハネ10:910)と言った。人間的力ではなく、神的力とは人間の思いと違う、それは、キリスト者を中身のない優越感に招くものでは決してないのです。その優越感に頼るならば幾らキリスト教信仰が長年続けられた地域出身でも偶像を長く信じて来たに過ぎない未成熟なキリスト者だといえるのではないでしょうか。常に、わたしたちの謎を解き明かし、新たな意味づけをしてくれる神を知り、感謝することが、大切な信仰の営みなのです。

分かっていることとして、イエスが紹介した神は、人間の特性(危険性)を知り、人間の行く末を心配し、人間を導こうとする神です。その恩恵こそが、教会の信仰の基盤だとおもうのです。その基盤なしに、教会が様々な活動をしてもどこかに歪みがくるのです。

「ミサ」の中での、感謝の祭儀、なぜ感謝するのか、その絶大なる神の恩恵に対して感謝することです。それは、私たち人間が神の愛の絶対性を見つめることにより、わたしたちの愛の弱さ、愛のもろさを感じ新たにされるのです。それは、どの時代にも、どの地域に住む人も、イエスが紹介する神を知れば感じることでしょう。そのような神を皆さんと共に賛美し、神によって刷新される共同体を営んで生きたいと思います。

教会ニュース「風」 巻頭言 5月号より