降誕祭における聖ヨセフの信仰の意義と現代日本社会に生きるキリスト者が継承するもの

清川 泰司 神父

・降誕祭における聖ヨセフの信仰の意義

今回は、主の降誕にあまり注目されてこなかった「聖ヨゼフ」のことを書きます。このことにより「ヨセフ信仰」ではなく、「ヨセフがどのような神を信仰していたのか」を確認することで、皆さんと主の降誕を豊かに迎えたいと思います。

聖ヨセフは福音書の中にわずかにしか登場してきません。皆さんもヨセフについて「大工」であり「イエスの育ての親」ということは知っていると思います。また、西洋から来た民間的信心に影響を受けている人にとって、聖ヨセフは大工や職人の聖人、ヨセフに祈れば奇跡が起こり、その祈りはよく効く、その理由は「イエスの父だから」という福音のメッセージを無視した現世ご利益的信心の人とも出会います。特に外国人の中に・・・・。しかし、この信心は福音に描かれている聖ヨセフを無視し崇めていることに過ぎないと感じるのです。そして、本当の意味でのヨセフ理解を遠ざけるものだと感じるのです。それは聖母マリアへの理解についても同じことが言えるのではないかと思うのです。幸いなことに、このカトリック国が作り上げた民間信心的な思い込みが広がっていない日本のキリスト者において、そのような先入観に邪魔されることなく、直接、福音に描かれる聖ヨセフに触れ、その信仰の深みに触れることができるので幸いだと感じています。(信心を否定しているのではない。福音の精神を理解した上での信心、理解でなくても結果的に復員の精神に繋がっている信心は肯定しています)。

さて、先ほども書きましたが、ヨセフが福音書に登場するのはわずかです。しかし、この行間の中にキリスト者が継承すべき信仰の深さと優しさと出会うことが出来るのです。マタイ福音書のイエスの誕生物語は聖ヨセフを中心に描かれています。そのマタイ福音書には「夫ヨセフは正しい人」(マタイ1:19)と表現されています。その「正しい人」とはどのような意味での正しさだったのか。この「正しさ」について多くの学者は、当時の律法に忠実に従う人としています。しかし、私は、この「正しさ」が物語の中で変容していくことを感じるのです。

まず、ヨセフの「正しさ」を知る手がかりとして、ヨセフの生きていた時代を見なければなりません。当時、ユダヤ社会はガチガチの男尊女卑の社会でした。ヨセフはマリアと婚約していたが「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになったとき、ヨセフは、マリアを表ざたにせずひそかに縁を切ろうと思った」と記述されています。これは当時、相当のスキャンダルだったのです。ここで、普通の男だったら、後にイエスが伝えた神の意志「赦す」というよりも、当時、流布していた強いもの側の都合によって作られた律法により「俺のプライドに傷をつけた」「男の沽券がゆるさない」といい、神の律法を冒涜した女としてマリアを罪びとと定めたことでしょう。マリアは、当時合法的に婚約外妊娠した女は石打の刑に処せられたことから死ぬまで石を投げつけられる残酷な刑に処せられた可能性があったのです。ヨゼフも律法に従う「正しい人」だったので困惑します。しかし、ヨセフには他の男と違い律法を超える本当の意味での信仰を持っていました。そのため、この因習に満ちた世界の中でマリアを赦し生き延びるのに最善の道は何なんだろうと考えたのです。こんなところにヨセフの「正しさ」があるのです。そんなところから強者のプライドを超え、弱者の幸せを考える、つまりイエスが伝えた神の意志がヨセフの信仰の中にもあったのです。

ヨセフは考えました。イエスを自分の子供と偽って育てることはできない。そして、選択肢として縁を切ることを考えたのです。この縁を切ることについて、これは私の勝手な解釈ですが。私は、ヨセフがマリアを捨てた男として悪者になることでマリア、そしてマリアの胎の子イエスを救おうとしたと想像するのです。この面でも、ヨセフは「正しい人」であり、本当の意味での強い人だったと想像できます。

その後、ヨセフは夢の中で天使にマリアの胎の子は聖霊によって宿ったことを告げられます。ここで信仰なき男だったら、その夢を受け入れなかったでしょう。ヨセフはこの夢に出てきた天使の告げた言葉を信じたのです。その根拠とは夢占い的なものではありません。その根拠は、旧約聖書に書かれているイザヤ預言の主の約束への信仰からのものでした。そして、ヨセフは信仰によってマリアと幼子イエスを受け入れます。その後、天使がエジプトに逃げることを告げた事にも従ってゆくのです。これも旧約のホセアの預言に繋がっているといわれています。マタイ福音書が描きたかったヨセフ像は、自分の意志や計画を横に置き、リスクを伴っても「神の意志と計画」を受け入れる姿でした。そして、結果的に女性と幼子という弱者の命を守り通す道を選んでゆく信仰者の姿だったのです。

最近出版された竹下節子さんの「『弱い父』ヨセフ(キリスト教における父権と父性)」(講談社選書メチエ)に「聖ヨセフは強権的な『偉い人』でもないし、威光ある『大聖人』でもないし、輝かしい『殉教者』でもないし、奇跡を行う『超能力者』でもない、優しいシンボルだ・・・・そして、禁欲的な孤高の精神を持っていた者でもない。そして、現代で言うなれば、勤勉に働いて余剰価値を生み、財を成して「勝ち組」の道をまい進する者でもない。」と書いています。そして家訓を継ぐことを強制する父でもない。世間体に振り回される者でもない。ただ、誠実に神の言葉の真髄を受け止め、弱い人々を守ろうとする信仰を証しした人なのです。このことが「神の計画」と密接に繋がっており、キリスト信徒が継承するものだと感じるのです。

 

・現代日本社会に生きるキリスト者が継承するもの

現在日本、世界において経済至上主義を中心にする社会が広がり、国民が意識しなければ指導者が弱者をより弱くし、切り捨てるシステムを作り、狭い世界観を持った人々が国家主義・民族者主義に向かわせ戦争に赴かせるシステム、神が示す正義と平和を欺くシステムを作る方向に向っていく傾向があります。このような状況について、キリスト者が福音に描かれる「主」を信仰するならば無視してはならないと思います。かつての預言者のように、この状況に警鐘を鳴らし、より良い世界の構築を目指す使命があるのです。そのことが「世の奉仕者」の基盤なのです。これは、テロのような暴力ではなく、革命的指導者を祭り上げて革命をするものでもない。ただ、祈りと、忍耐ある対話によって人と人とが互いに愛し合い、弱者が捨てられない世界の実現、つまり「神の国」の実現ために奉仕するのです。このことがキリスト者の真の奉仕の意味なのです。

先日、姫路地区で「信教の自由と政教分離」についての司教団メッセージについての錬成会を行いました。それは、聖書に描かれる主の意志に従うものです。教会だけの救いではなく、すべての人の幸せを考えるが故に、黙ることの出来ない司教団の勇気あるメッセージだったと思うのです。私たちも、信者である以上、この声明を出した日本の司教団の思いと共感する必要があると思います。もし、理解できない点があれば、理解する努力が必要だと思います。そのことにより、キリスト者としてのアイデンティティーを自覚し、福音に従うという意味を理解するからです。

これから、日本の教会はどうなるか分かりません。司祭の減少、高齢化様々な問題があります。しかし、それよりも問題なのが、信徒の福音の理解の乏しさです。この状況で、いくら教会が形だけ生き延びても神の言葉とは関係のない共同体を形成してゆく危険性を感じるのです。司祭、信徒の人数が少なくなっても、高齢になっても、肝心なことは福音の精神深く悟り、それに生きようとする信徒たちが増えることです。そして、このような状況の中、信徒の真の成長が問われる時が来ているのだと感じます。

今年の降誕祭のミサが、今回、取り上げた聖ヨゼフをはじめ聖マリア、十二使徒やパウロ、聖人や殉教者がリスクを負いながら「神の計画」に従い「神の国」の実現を目指したように、多くの信者がキリストを証しする責任を自覚する派遣のミサとなること願います。