復活祭と聖霊降臨祭の間

L・ゴーセンス神父

「祈りの先生」と呼ばれる典礼が復活節中よく「教会の若返り」を感謝していることに皆は驚かれたことと思う。言い換えれば、主イエスの生きている喜びがあれば、教会共同体そのものも元気になるという自己意識は昔から表現されている。つまり、復活徹夜祭中に、主に新しい兄弟姉妹は加えられ、四旬節中に悔い改めて償いを果たした罪人は許しの秘跡によって和解され、洗礼の約束を更新した信者は悪に対して死にキリストのために生きるように決意した。典礼はこの様々の出来事によってキリストの体(共同体)がやはり若返って生き生きとしていることを感謝する。花見の季節、学校などの新年度と転職のこの時季は、日本の風土に合わせて、小教区のレベルで受洗者は歓迎されるし、キリスト教入門講座と聖書のグループもスタートするし、募集の上で各チームと評議会のメンバーもフレッシュに取り組んでいく若返りだ。

それは復活主日の出現物語の通りだ。逃げたり、怖がったり、閉じこもったりする弟子に「あなた方に平和があるように」との和解の挨拶の後、主イエスはこの弱虫に聖霊を吹きかけて彼らを福音宣教に使わす、自分が父に使わされたように(ヨハ20、21参照)。あの時からキリストの現存と働きはその体の部分である弟子を通して実現している。しかし、それをやってみれば、しんどい課題でもある。だって、ペトロをはじめ、5人の使徒 + ほかの2人の弟子 (= 読者=私達)、合わせて7(聖書の中で完全さを指す数字!)人はガリラヤ湖で漁に行っても(ヨハ21,3)、なにもとれなかった。やはり、使徒職は全然うまくいかない時がある。海岸に立って食べ物を求めるあの知らない人に何も与えられなくて「ありません」としか言えない団体だ。「人々に仕えない教会は役に立たない教会だ」というフランスのある司教の有名なことばが思い浮かぶ。ところで、イエスの指示に従ってすると、もう一度不思議な漁となり、153匹もの魚が引き上げられても、網は破れなかった。サムエルソン教授の言う「多文化の衝突」の予告と違って、普遍的な(= カトリック)教会は多様性における豊かな新しい一致をめざし、神と疎外されて互いに離れ離れとなった人々を天の父の子供として集める使命を与えられている。公生活の初めに、イエスの第一の救いの業はやはり旧約聖書の十二部族からできている「神の民」の代わりに十二人の使徒を土台とする新しい「神の民」を集めることで、漁師をやめて人をすなどる使徒になるような召出しだった。

けれども、「神の国」の四海同胞の実現へ取り組む時、動機が問われる:「私を愛しているか」と。羊の世話をゆだねられることは条件付だ。海岸にあった炭火によってペトロは夜中イエスを否定した焚き火を連想させられ、三回もイエスに同じことを問われると、悲しく自分のおくびょうさを思い出す。シャロームの主に許され、教会を建てるほどの岩に任命されてから、ペトロは、資格がないのに、イエスに愛されているその弱い自分を受け入れ、堂々と最高法院へ何回も出て、生きているイエスの証人となった。ペトロの生まれ代わりはやはり主との出会いのお陰で起こった。ペトロは「主だ」と聞いたとたんに、主と出会おうとするから、上着をまとって湖に飛び込んだ。

使徒言行録に記されているペトロの五つの説教は初代教会の福音宣教のメッセージの記録だと思われる。すでに形にはまった口伝えや書物をルカが資料として使ったことは語いと言葉の使い方からはっきりと分かる。この一番古いキリスト論の特徴として、イエスの死と復活を伝える前後関係はユダヤ人社会や宗教のリーダーに対する糾弾と言える。「夜中の不正な裁判をもって、冒涜者として死刑に定め,木にかけて殺したイエスを神は復活させて命の導き手とし、生者と死者の審判者(=正しい生き方の基準)に定めた。詩篇118編が歌うように、“捨てられた石は親石となって私達の目には不思議なことだが、神の業だ”と。無知のためとんでもないことをしてしまった皆が悔い改めて、罪を許していただいて洗礼をうけなさい」と。山上の説教の八つ目の幸いに言われたように、ペトロと仲間はイエスの名(=生き方と価値観)のため辱めを受けてもそれを喜び、世間体をはるかに超える。

ところが、ペトロはまた成長しなければならない。若いうちに自分の思ったように教会のかしらとしてふるまったとき、異邦人が律法を守るべきかどうかについてあいまいな立場を取ってしまい、パウロとぶつかった上で見直し、エルサレム公会議で異邦人に開かれた教会を宣言する。歳をとった時、ペトロは行きたくないところに連れられて十字架上で殉教者となった。こういう風にペトロがイエスの後について行ったから、ヨハネだけは生前のイエスに呼ばれる場面でではなく、この殉教の予告の場面まで「私に従いなさい」と言う言葉を保留した。ボランティアか奉仕者になる動機を反省すると、初めの段階にあいまいな動機で、自己満足への憧れを抑えられないことは多い。個人のレベルでそうであれば、国と国の間でも同じようなことは起こる。たとえば、ODAの援助金は開発途上国の人々の本当のニーズに答えず、日本企業の儲けが目的になってしまっている。聖人の伝記を読むと、この成長の過程はよく現れる。たとえば、マザー・テレサは修道女として二十年間もミッション・スクールで女子教育に尽くしたが、神に呼ばれると、死にかかっている人たちの世話をしはじめる。ロメロ司教もそうだった。普通の司祭で、司教になったことを成功と思ったけれど、小教区を回れば回るほど圧迫されている人々の苦しみと搾取に直面した時から、意識的に命をかけて、土地の持ち主と軍隊に対して不正と暴力をやめるように呼びかけた時、ミサ中に暗殺された。

正義と平和協議会会長松浦悟郎司教は「力で支配≠フ風潮危ぐ」と言う言葉で現代日本社会の特徴を記述する。こういう状況の中で、政教分離、憲法の九条、教育、戦争の責任、ODA、格差、家庭破壊とDV、過労死と自殺、アルコールとギャンブル依存症、サラ金とローン地獄、暴力団の取締りなどの社会問題に関して、構造悪と戦うことによって神の国の実現へこの世を変容するような取り組を求められている。願わくは私達も、ペトロにつづいて、福音的な証を立てるために聖霊降臨に強められるように。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使5,29)。





教会ニュース「風」 5月号 巻頭言より