新たな命に召される時

清川 泰司神父

 

四旬節・聖週間・復活祭によって新たにされる

今年も、私たちは四旬節、聖週間、復活祭という「キリストの秘儀」「過ぎ越しの秘儀」を通して、新しくなる恵みを神からいただいています。

私自身、司祭になってから年を追うごとに、この期間に接し「キリストの秘儀」を思い起こすことは、キリスト者にとって、さらに人類にとって大切な時だという認識が深まってきています。ある人は「神父さん、人類なんて大風呂敷を広げたね」という人がいるかもしれません。私も、恥ずかしながら、神学校の典礼の先生が『全宇宙の救い』といっていたのを聞いて「大げさだな」と揶揄した一人なのです。しかし、この期間の式文をじっくり味わうことで、教会の使命とその先生が言っていたことが少し見えてきました。

現代社会をじっくり見つめると人間が作り上げる闇が見えます。自然環境破壊/戦争/内紛/貧富の差/人身売買/堕胎/臓器売買/権力者・金持ちが有利になる法改悪/不正/人々の自分さえよければという利己心と無関心/いじめ/虐待/ゆるしよりも裁きによる解決/和解よりも分裂/DVなどなどです。その人間が作り出す「死の文化」がありつつも、その文化とは違う「命の文化」を広げようとする神の力を感じます。人類をよりよき方向に導くことを諦めない神の愛がこの世で働いていることを感じます。あのモーセが体験した「わたしはある」(出エジプト3:14/ヨハネ8:58)という言葉が、今も、私たちに語りかけているのを、この期間の典礼を通して感じることができるのです。

「ひびき」によって確認

皆さんも、四旬節に出される小冊子「ひびき」を読まれたと思います。私も、今年「ひびき」を読み、私たちの姉妹、兄弟の苦しみを知ることが出来ました。無関心だった、無知だったということを感じ、その問題解決への糸口を祈りと共に捜し求め連帯してゆかなければならないという欲求にかられました。しかし、ある信者さんから「この冊子と、カトリック信仰とはどのような関係があるのか」とか、「自分が思っていたカトリックのイメージとは違う」という声も聞きました。その人々がイメージするカトリックの信仰とは何なのかを考えさせられました。

カトリック教会が現代の日本の信徒に与えているイメージ、それは福音のメッセージとカトリック信仰とは異なるものがあるのではないかと感じる時があります。教会の雰囲気、また形式的典礼の美しさ、内輪の一致、教会維持のための忙しさ、そんな中、福音の価値観が基盤になっているのか、信徒一人ひとりの行動の原動力が福音の価値観を基にしているのかに疑問を感じるときがあるのです。もしかして、それを隅に置き歴史を歩んでいるのではないかと感じるのです。隅の親石のように・・・・(マタイ21:42)福音よりも、西洋から来た豊な文化=カトリック信仰との混同や、神父との個人的関わり、人間的交わりが、人間的達成感の方が教会活動の原動力になっていたのではないかと感じるときがあります。

先日、日本の188人の殉教者は列福されることが発表されました。これも現代日本の信徒の状況を考えるとお祭りや行事にして終わりにならないかということが心配です。福音のイエスは、安住し自己満足しているイスラエルの民にこんなことを言いました。「あなたたち偽預言者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりするからだ。そして、『もし先祖たちの時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかっただろう』などと言う」(マタイ23:29-30)と揶揄しています。今回は、ただのお祭りではなく、キリシタンの預言者としての働きを見つめなおし、現代のキリスト者が預言者として十分生きているかの識別をするような行事が行われればと希望します。現代の信徒は、それに接してほしいと感じる、長崎に行くだけで、またキリシタンの歩んだ道を巡礼として歩くだけではなく、この現代社会の中での問題に対峙し、預言者としての道を共に歩みたいと感じています。キリシタンは、迫害時代という福音に十分接することができない状況の中で、ミゼリコルデという福音の精神(マタイ2531が元になっている)そのものを大切にして生きてきたのです。自分たちも差別されていたが、貧しい人々と共に生き、キリストの言葉のエッセンスに希望を起き、現世的な夢ではなく、神の世界に夢を抱いていたのです。そして、結果的に殉教したのです。

そんな時代のキリスト者が「ひびき」を読めば、彼らは、苦難にいる人の友になっていたに違いないと思います。そして、その行為によって自己満足な「霊的」祈りから解放され、本当の神の働きに繋がっていたと思うのです。今から、約40年前、カトリック教会は原点に戻ろうとしました。それが、第二バチカン公会議です。その中の現代世界憲章は次のような文章で始められます。「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちに喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」(現代世界憲章1項)。そして、それも福音のイエスと出会うことから出発することを教会は決めたはずなのです。しかし、状況は、福音のことを知ろうという欲求が弱く、それが現代の、日本の教会の状況を作っていると思うのです。そして分かっているという人も、過去の信仰観を中心に置き、それ以上変わろうとしない。本来、信仰とは止まったものではなく、現代、生きている神とのつながりの中にあるのです。

今年も、より福音に生きる者の育成、福音を中心とした共同体の基盤を作ってゆきたいと思っています。そのために、ゴーセンス神父と私は今年も福音を深める学びの会を作っています。是非とも参加してほしいと感じています。神から、いただいた洗礼の恵みを豊にするために・・・・・。

 




教会ニュース「風」 4月号 巻頭言より