「誰を遣わすべきか?」(主の御声)

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

イザヤ六章八節

後藤正史 神父

最近、いろいろなところで「居場所」ということばを耳にします。この社会に子どもの居場所はどこにあるのか、わたしたちの教会に青年たちの居場所はあるのか、この日本にあって教会は居場所をどこにみつけるのかなどと。「居場所」ということばは、なにか喜びを見出せない、希望や生きがいを持ちにくい環境の中に、細いきずなの人間関係の中に、わたしたちが生きている危機的な状況をひと言で言い表しているのではないでしょうか。

聖書をひもといてみると、神に特別に選ばれた、イスラエルの民がこの世の困難に直面したとき、自分たちを救い出した主なる神にたびたび目を背けてしまいます。そのような時、神から特別に召しだされて、神のもとに立ち帰るよう人々を励まし、導く人々が活躍しています。そのような人々は「預言者」と呼ばれています。「予言(未来を予測)」と「預言(神の望みを告知)」とは表向き似ているが内容はまったく異なります。世間で関心が持たれているのは予言ですが、聖書的な視点からは断然預言の方に力点があります。

冒頭に挙げたイザヤ書の一節は、イザヤが主なる神からの呼びかけに答えた場面です。実は、主とイザヤとのこのやり取りの前に見過ごすことのできない場面があります。イザヤは、セラフィム(翼を持つ、神と人との仲介者)たちが天の御座におられる主を「聖なる、聖なる、万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と称える声におののき、わが身が滅ぼされると思いました。しかし、主はイザヤの罪や咎をおゆるしになり、イザヤをまるごと受けとめられたのでした。

従って、わたしたち人間は、神にゆるされ、神や人と和解してこそ、主の招きに素直に答える備えができているといえます。神の協力者となるには、まず神の前での誠実さ、謙虚さが求められます。

そうして、イザヤは「誰を遣わすべきか」と主が呼びかけられると、すぐさま「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と自ら進んで、主の働き手となり

たいと快活に申し出ました。この受け答えを聴いているわたしたちの心の奥底にあるわだかまりみたいなものや、もやもやしたものまで、ぬぐいさってくれるような気持ちのいい答え方です。(この時、イザヤは三十代と推定されます。)

このイザヤに、主は早速、イスラエルの民が喜びそうもないメッセージ、「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」という言葉を告げるという預言のお仕事を与えます。このお仕事はイザヤにとってももちろんうれしくなかったでしょう。

イザヤは「はい」と答えた約束は守ろうとしながらも、ためらいの気持ちは隠しようがありません。主なる神に、イザヤは「主よ、いつまででしょうか。」とみ言葉を宣べ伝える派遣期間について尋ねます。すると、主なる神から、さらに驚くべき、つぎのような答えが返ってきました。「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

こうして、イザヤの召しだしを振り返ってみると、決して華やかなものではありませんでした。しかし、イザヤは神からの呼びかけに精一杯、誠実に答えようと努めました。ここから混迷の現代社会に生きる、わたしたちキリストの弟子たちへ貴重な手がかりが与えられていると信じます。

第一に、罪のゆるしによる、神との和解と一致が大切です(神との深いきずな)。第二に、主なる神の呼びかけに喜んで答える態度が求められます(神への従順)。第三に、いやな避けたいことであっても、それを受け入れる構えや覚悟が必要です(忍耐)。

   キリストの教えは「愛の教え」、「希望の教え」だとよく言われます。その教えを伝えるよう望んでおられる主なる神から、わたしたちはきっと問われています。「あなたがたをわたしの協力者や奉仕者として遣わしたはずだが、あなたがたは今、どこにいるのか」と。

  わたしたち教会が「居場所」を探している人々の住まいとなっていくことができるよう、また、一人ひとり、また信仰共同体が回心し、最後まで御言葉を宣べ伝え、生き抜くよう招かれたことを心に刻みなおし、歩んでいくことができますように。

 




教会ニュース「風」 3月号 巻頭言より