ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた
清川 泰司神父
闇の中を歩み民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように戦利品を分け合って楽しむように。彼らの追うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごが、わたしたちのためにお生まれになった。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵の業によって今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9章1−6)
イエスが生まれる450年前に、イエスの誕生と、その意味を暗示したキリスト信者が信じるイザヤの箇所です。この箇所からも、旧約の各部分からも、また福音書からも、神は、貧しいものを虐げる人々の思いを打ち砕き、貧しいものを優先される社会を神が望んでいることを感じさせられます。そして、平和は、貧しい者も、富んでいるものも神のみ言葉を聞き、互いに愛し合い、配慮しあう世界が求められていることが聖書の文脈から見えてきます。そのようなことを、私たちに熱意をこめて求める神が、私たちの世界を支えていることを、キリストを信じるが故に、信じています。
さて、私たちが住む世界において、このような神様が人間に呼びかけ、支えている自覚があるかといえばそうでないような気がするのです。日本は、格差社会となり貧しい人々の叫びが優先されない世界が広がってきています。子どもたちのいじめと自殺の問題も、何か、神の意志が反映していない世界が広がっていることを感じます。それは、私たちの社会の中にある「物差し」人間の価値を計る物差しが、福音の価値観とは異なる物差しが絶対化されている感じを受けるのです。たとえば、驚くのですが、日本において死刑賛成者が70パーセントを超えるという点です(死刑制度はG7の中、米国と日本だけ廃止していない)。何故か、人間がやり直すというよりも、死を持って解決することを欲する人々が多いということです。同時に自殺も死を持って解決しようとする「価値」、「空気」が日本社会に漂っているということです。そこに疑問を感じないというのもおかしいのです。神は「人を殺すなかれ」といわれました。それは、人間をほおっておいたら感情の中で他者を殺し、そして、自分自身をその時代の価値観によって裁く、その裁きの物差しは神ではなく人間の意識によって作り上げられたことも知らずに、それを人間が思慮深く考えさせるために「神は人を殺すなかれ」と言ったと思うのです。
自分の都合や価値観が、真理となる怖さ、また人間の感情によって流される風潮の怖さ、そんなことを客観的に見るために神は警鐘を鳴らす、そんな神と聖書を読むことで、またミサの中で出会わせてもらっています。人間の中で一番弱い立場である幼子を、そして人間の裁きの物差しで罪びとのひとりに数えられ十字架にかけられた方を、神と仰ぐことで、私たちの「病」と「傷」を客観的に見る、そこに「裁きからの解放」があり人間の究極的救いと癒しがあるような気がするのです。人間の物差し、それはいい加減であり、危ういということを知らしてくれる、そんなことを、熱意を持って知らせた方がお生まれになる、そこに私たちが光を見出すことが出来るのだと思うのです。
教会ニュース「風」12月号 巻頭言より