「なか」からの成長 


ゴーセンス 神父



ナザレのイエスが公生活を始める前に大工であるヨセフの小さな工務店で

働いたと思われるにもかかわらず、そのたとえ話の中で職人の

仕事そのものに一切触れていないことに考えさせられた。

さらに、ペトロをはじめ、使徒たちの中で三分の一が漁師だったのに、

漁業は一度もたとえ話にならないことにも気付いた。

タラントンを預かっている僕や良きサマリア人のたとえ話しのように

人間関係を課題とする物語以外に、神の国を描くイエスの話は

ほとんど農業の世界から借りたイメージを使かっている。

しかもその教えは、植物の自然な成長と、種を蒔く時から収穫までに、集中している特徴をもっている。


からし種(シナピ)のように小さくても、厳しい環境においても、

毒麦と競争があっても、驚くべき生命力で成長し、見事な実を結ぶ。


農業のプロさえこの神秘的プロセスが全くわからないことを正直に認める。

「神の国は次のようなものである。

人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、

どうしてそうなるのか、その人は知らない。

土はひとりでに実を結ばせるのである。」(マルコ4・26―28) 


自分が立てた計画通り、色々な材料を適当に組み合わせる職人と違って、

農夫は種を蒔いてから、間引きや草取り以外、成長のプロセスそのものを

コントロールすることができないことを良く知っている。

もし成長を早めるために苗をひっぱたりしたら、必ずだめになることも分かっている。


神の支配が広まるプロセスはこのような自然の現実に似ていることを

イエスが主張する理由は、神のみ旨にかなう福音的な価値観を生かすことが

私たちの努力より、むしろ神ご自身の働きへの信頼にたよるからだ。

自分の心から、泉のように、湧いた聖霊の流れに乗らなければ、

イエスらしい愛を伝え分かち合うことは無理だ。

自力の活躍が自己主張に過ぎないものだけになってしまう。

神の愛に自分の喜びと悩みを照らし、家庭や学校、仕事場や地域社会の人間関係を

神の愛に開かなければ、なかなか神の国は近付いていてこないし、多くの矛盾を作ってしまう。


能率を目指すグローバル経済システムは世界人口の三分の一の人権を無視することによって

社会への参加を拒否して、彼らを惨めな周縁へ追い出してしまう仕組みとなっている。

そして、国内でもいわゆる負け組みが現れてきたのは仕方がない副作用と思われがちである。

他方、多すぎる自殺の動機は、残した遺言書によると、もうローンの泥沼ではなくて、

思い通りにいかない健康状態や人との付き合いのつらさから生じるそうだ。

つまり、生きづまりで、救いの見通しがないと思い込んでしまうスピリチュアルな危機感から起こった

悲劇であるケースが増えていることは最近よく指摘される。


ところが、天のお父様の愛を紹介してあげるのが他人に対する一番大切な奉仕であるとすれば、

イエスも体験したように、ストレートのメッセージを持って反発を買うよりも、

考えさせる話を通して何人かを神へ案内してみた方がまだましだ。

「イエスは人々の聞く力に応じて、多くのたとえで御言葉を語られたが、

弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」(マルコ4・33―34)


神の愛を悟るには、結局、回心の無償の恵みを互いに祈り求めることしかないと思う。

最後の晩餐の時でも何も分からなかった弟子たちを限りなくお愛しになったイエスが

彼らのために祈って下さったように。



姫路教会ニュース「風」 7月号より