いのちのしるし 


ハリー神父


クリスマスを暗闇の中に輝いている光にたとえると、復活祭は光そのものです。

主はよみがえりました。死に打ち勝った。新しいいのち。太陽の光の中で桜が咲く。

春、喜び、希望を抱く気持ちがわいてきます。



しかし最初の復活はそうではなかった。暗い一日だった。

マグダラのマリアは泣きながらイエスを探していました。

ルカの福音によると、ヨハンナ、マグダラのマリアとヤコブのお母さんは墓にまいる時に、

二人の白い衣を着た姿に言われた。『イエスが復活するということを言われたことを覚えていなかったか?』

 彼女らはそれを弟子に告げに行ったら弟子達はその『たわごと』を信じなかった。

トマスも信じなかった。マルコの福音の終わりにこの不信仰が描かれています。


エマオの弟子達がエルサレムに帰って十一人の弟子にイエスに出会ったことを話したら

弟子が彼らを信じなかった。そしてイエスが現れて、彼らの不信仰と、かたくなな心をおとがめになった。

「復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったから(マルコ1614)」


初代教会はイエスの復活の意味がわかるまでに時間がかかったことは確かです。

イエスの復活の話は福音の中で最も古い一部であって、初代教会の状態を語っています。

イエスの死によるがっかりからイエスの生きている信仰への道を語っています。

この様々な話が初代教会の人々にとってイエスの復活の証拠となる役割もありました。

                                                    
たとえばユダヤ人は、イエスが三日の後に復活すると言われたことを思い出して、

ピラトに行って墓に番人を置くようにたのみました。

ある女たちは、イエスのからだが墓に置かれたことを見たと墓にシールを付けたことが記録されています。

このようなことがイエスが本当に墓の中に葬られたことの証拠となるのです。それにかかわらずイエスが復活された。


復活後にもイエスは弟子に現れるとき、手と足の傷後が証拠となる。

様々な話の中、ひとつの話は、現代に生きている私たちにとってもイエスの復活の証拠となるのです。

聖ルカの福音に記録されているエマオの弟子たちについての話の中にあるのです。

イエスは彼らの前でパンを裂いたとき彼らの眼が覚めて、イエスが生きておられることがわかった。

このふたりにとってだけではなく、初代教会の信者にも私たちにとってもこれが復活の唯一証拠です。

私たちにとって聖体の秘跡、一致の秘跡、すなわちイエスとの繋がりとイエスにおいて

人々との繋がりである共同体はイエスが生きていることの証拠です。

そしてこの共同体、この一致の喜びは証しとなって他の人にとっても

イエスがこの世の中に生きておられることの証拠となるのです。



姫路教会ニュース<風> 4月号 巻頭言より



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