「四旬節に思うこと!」
 

清川 神父


ゼカリヤ書には次のような箇所があります。

そのとき、万軍の主の言葉がわたし(ゼカリヤ)に臨んだ。「国の民(イスラエルの民)すべてに言いなさい。
また、祭司たちにも言いなさい。5月にも、7月にも、あなたたちは断食し嘆き悲しんだ。
こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食したのか。

あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだり
してきただけではないか・・・・・・」さらに万軍の主は言われる「正義と真理に基づいて裁き、
お互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者(外国人)
貧しい者らを虐げず、互いに災いをたくらんではならない」

(ゼカリア7・5〜9)


今年は、3月1日「灰の水曜日」をもって「四旬節」に入りました。

この四旬節に、教会は、回心のしるしとして伝統的に何を大切にしてきたか、

以前は「祈り、断食、施し」、今では言葉を変え、「祈り、節制、愛の行い」といわれています。

しかし、言葉を変えてみてもゼカリヤの預言で示されたように、慣習化され

目的を見失ったものであるならば、単なる、自己実現、自己満足に終わり、

結局、意味のないものになるのです。

継続すればするほどに人間性を悪化させ、神の言葉に不感症になっていくのです。

現代の健康ブームの中で「断食」も「ダイエット効果を高める四旬節の過ごし方」と

いわれかねないものになる可能性があります。

本来、キリスト者は、イエスが生涯を通して示した「神の国」の考えに耳を傾け、

その「神の国」(神の支配の国)の実現に向かわなければ豊かにならないはずです。


最近、読んだ内田樹という学者の本の中に、こんなことが書かれていました。

「人間の社会的能力は『自分が強者としての特権を享受するため』に利己的に

利用するものではなく、『異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れる為に』、

その成果を人々と分かち合う為に天から賦与されたものだ。

そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間共同体」を再構築すること。

『喜び』は分かち合うことによって倍化し、『痛み』は分かち合うことによって癒される。

そういう素朴な人間的知見を、もう一度『常識』に再登録すること。

それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」を繋ぐことのできる

唯一確かな道だろうと私は思っている。」

と、この文章を読み、冒頭に書いた旧約聖書のゼカリヤの預言の主が求める

人間の姿がここにあると感じました。

現在の日本の社会に住む人にとって物質的には豊かではあるが、生きる指針というのが

見えない時代を歩んでいる感じがします。そして「生きるとは何か」ということについても

儚い答えしか返ってこないのも現代日本社会に住む人の現実かもしれません。

その生きるということも、自己実現を目指し、家族の繁栄を目指す、その視野の狭さによって、

人間の可能性にフタをされているような気がします。

その自己実現も広い視野にたっての社会貢献という意味が損なわれ

成熟していない現実があるような気がします。

そんな土壌から、権威ある人々の無責任さ、今は拘留されている

元IT産業の社長Hさんなどは

「金があればなんでもできる」という未熟な精神性が

簡単に伝染されていっています。

その危険性を感じていないことに問題を感じるのです。


                           あるアナリストは、多くの日本人の象徴的な姿についてこんなことを書いていました

                                      「9・11(同時多発テロ)があったとき、

                               ニューヨーク在住の日本人女子留学生に感想を求めた。

                             その時、その女子大生は『怖かったね』『すごかったね〜』とか、

                                   犬がキャンキャン吼えている感じを受けた。

                     
                         一方、中近東や、他の国の女子大生は、(たいていの国は宗教を持った国が多い)

                               その人々の感想は『これはやばい、対話が必要だ』といっている。

                              いくら因数分解ができても、先進国の国民になったにもかかわらず

                              基本的な世界の流れ、問題を知らない人が社会に蔓延している。

                                   これは女子大生だけの問題ではないのです。」と。

                                    
                                  これを読み、世界的視野の狭い民衆の意見によって、

                                     今、話題になっている平和憲法改変が、

                                どのようになるのかを考えると怖さを感じずにはいられません。

                         識別能力を失われている国民の中で、物事が決められる怖さがあるのです。



                          目の前の小さな達成感で喜ぶものいいかもしれないが、もう少し、視野を広げ、

                            過去の歴史上の失敗を土台として、福音的社会の実現のために、

                            未来の世界を築き上げられるように責任を持とうとする人が必要です。

                           その意味で、四旬節、それは、ただの宗教行事で終わってはならないと思います。

                                人間が、神から与えられて使命を現代で果たすことを、

                             神の言葉によって識別する力をいただく期間でもあるのです。

                             それは、真の人間性を豊かにするための時期でもあるのです!


                        四世紀初頭に教皇レオ一世も四旬節について「四十日間の練成期間」と言っています。

                       また、この期間は、キリスト者の生き方に魅力を感じ、入信しようとする人の準備期間でもあり、

                          同時に、その人々を迎え入れる共同体は(復活徹夜祭に洗礼式があります)

                         キリストの使命に相応しい共同体になることを意識し、成長する期間となるのです

                                 
                                   (この期間を皆さんは生かしているでしょうか?)


                                     姫路教会ニュース<風> 3月号 巻頭言より

    

                                        ホームへ      巻頭言 トップへ戻る